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憲法改正!

日本の平和と安全の確保のため、国民が自尊心を持てる為、日本が真の民主主義国家となるために日本国憲法を改正しよう。

カレル・ヴァン・ウォルフレン著 『日本の知識人へ』

憲法は主権"在民"を謳っているが、日本人は憲法の内容について相談を受けなかった。憲法はマッカーサー元帥から、"手渡された"ものである。憲法第九条は独立国として不可能なことを要求している。履行不能な憲法はヒンズー教の聖牛と同じ。知日派カレル・ヴァン・ウォルフレン著 『日本の知識人へ』 (1995年)より日本国憲法に言及する部分を引用紹介します。

『日本の知識人へ』 (1995年 窓社)

・・・・・日本の憲法そのものをもう一度よく見直し、重要な事項に修正を加えることは、実りある政治的議論を喚起する刺激剤になるばかりか、日本の政治の健全性を保つうえでも、きわめて有意義なことである。

理由はいくつもある。まず、憲法は主権"在民"を謳っているが、日本人は憲法の内容について相談を受けなかった。憲法はマッカーサー元帥から、"手渡された"ものである。

「日本国憲法は押し付け憲法だ」と言われて悔しい護憲派が、「憲法を押し付けられたのは当時の支配者のほうで、国民が押しつられたのではない」という台詞を好むのですが、これは昔の社会党議員の片山哲の受け売りです。

占領軍に厳しく監視されていた状態であったとはいえ、少なくとも国会で意見表明の場が与えられていた議員だからこそ、「自分たち議員連中は、もう少し占領軍に抵抗できたのではないか。押し付けられたのは国民ではなく政府なのだから、そのときの国会議員が抵抗せずに誰が抵抗するというのか」と自戒を込めてこの台詞を言えるのです。

国民にしてみれば、連合国軍に屈した支配者側に押し付けられたのですから、「憲法を押し付けられたのは当時の支配者のほうで、国民が押しつられたのではない」などという論法は詐術です。

憲法9条はジョークである

新憲法の制定によって、日本人一人ひとりが憲法に責任を持つという意識を植えつけることができる。そうして国民は憲法を国の最高法として護っていくだけの強さと政治的勇気を持つ。別の言葉で言えば、国民各自がより明確な市民としての自己を認識しはじめる。つまりは日本をどう統治すべきかについての発言権をもった政治的存在となりうるのである。

新憲法で可能になることは他にもある。現行憲法の第九条をどうにかしなくてはならないことはもちろんである。

論争の種になっているこの有名な条項についていえば、その運用面で現行憲法はほとんどジョークと化してしまっているのが現状である。憲法第九条はおそらく、アメリカ占領軍の最大の誤りだと考えるべきであろう。

1995年の時点で、ほとんどジョークと化していた憲法9条は、その後有事法制が整備され海外派遣が重ねられ、ますますそのジョークに磨きがかかってきたと言えるでしょう。

核心に迫ろう。憲法第九条は独立国として不可能なことを要求しているのだ。この規定があるにもかかわらず、日本という国は国際社会の一員として、他の国同様の責任を期待されているのである。交戦"権"を放棄する国は、その主権の最大の権利を放棄することになる

第九条が書き込まれた際には、純粋な理想主義的な思いがあったはずで、それは賞賛すべき心情から来たものだと私は考えたい。

いや、「第九条が書き込まれた際に」すでに9条は内外へのカモフラージュであったわけで、「これが理想である」と考えている振りをしていただけです。もっともこのことはカレル・ヴァン・ウォルフレン氏も真実を十分理解している、ということは前後の文脈から判断してわかるのですが。

しかし、理想主義や立派な態度が時としてそうであるように、こうした思いは、結果的に、

人間性と政治的現実をゆがめる全体像を作り上げてしまった。これは長期的に見て政治的にマイナスであるばかりでなく、現に意図と正反対の結果を生じつつあるだけでも有害である。

確かにそうです。憲法9条を護ろうとするために、『9条護憲派』は「日本人が戦争を反省して自ら望んで軍隊を永久に放棄し、日本の生存は他国の善意に期待することで確保している」などという事実無根の与太話を無理やり通そうとし、その主張に合致するように歴史の真実を歪めていきます。そうやって護憲派は偏狭な歴史修正主義者となるのです。

履行不能な憲法はヒンズー教の聖牛と同じ

マッカーサー元帥がこれを提案するにあたって、この条項が歴史的にどれほど十台な結果を生むかについて、じゅうぶんに考慮したという証拠はない。

第九条は彼が天皇をその地位に残しておきたいと臨んだために作ったもので、天皇をその地位に残すことで日本を管理しやすくなる、と考えたのである。

日本が再び脅威となることを恐れるワシントンの一部グループをなだめるための交換条件--戦争放棄の憲法はこうした不安を鎮静化するために特に必要とされたのである。

第九条を加えることによって、マッカーサーは、この憲法に、「履行不能」という運命を背負わせてしまった。憲法を、通常果たすべき機能を果たしえない、あたかもヒンズー教の聖牛のような存在にしてしまったのである。

聖牛

正当な戦争と不当な戦争

平和憲法」は正当な戦争と邪悪な戦争を一切区別していない。そのために日本人は、正当化できない戦争と正当な理由があっての戦争を見分ける必要がない。これが非現実的な世界観を促進する。

すべての戦争は常に悪だとする平和主義を推し進めることは、日本人が過去の自分たちの戦争を歴史として受け入れることをいつまでも妨げることになる。

しかも、日本が戦争で果たした役割の功罪を正しく見ようとする際に、平和主義憲法がまたしても邪魔になっている。すべての戦争を同一視することによって、憲法は、日本の戦時中の行動をかつて戦争をしたことのあるすべての人々の行動と同一視しているようである。

カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、オランダ人の立場(連合国国民の立場)から、第二次大戦時の日本の戦争は侵略戦争であり不当な戦争であったが、連合国の戦争は自衛戦争であり正当な戦争であると考え、国連憲章も同様の概念の基で起草され、戦後国際社会も国連憲章に従っていると理解しています。

そう考えるウォルフレン氏は日本も今後侵略戦争を起こせば「不当行為」と判断されるのは当然だが、逆に日本が侵略されたときには、侵略した側が「不当」なのであり、自衛措置を行使した日本は正当であると考えます。だからこそ自衛戦争を否定するかのような憲法9条は履行不能であり、改正しなければならないと語ります。

では9条護憲運動家はどう言っているのでしょうか。彼らは第二次世界大戦時の日本は侵略した側であり、不当な戦争を起こした側であった、と考えるところまではウォルフレン氏と同じですが、そこからは先が違います。

9条護憲派は、戦後社会も依然、正当な戦争と不当な戦争は区別されていることは承知しているが、日本だけは両方を区別せず、「すべて戦争は悪である」と主張し、世界も日本に倣うことが世界平和につながるのだと主張しているのです。

ではなぜ護憲派が戦前と戦後を分けて、「戦前には正義の戦争と悪の戦争があり、戦後にはすべての戦争が悪である」と主張するのでしょうか。

そのような主張する理由は、まず、「戦前には正義の戦争と悪の戦争がある」と主張することで、日本と戦争をした国を擁護し、日本だけを悪役にできます。

そして、「戦後には正義の戦争と悪の戦争の区別はなく、すべて戦争は悪である」と主張することで、戦後の日本が侵略された時(侵略されそうな時)の為に自衛力を維持しておくことを妨害できるのです。

ところが、オランダ人の目からはそんな左翼の意図が見えません。だから左翼護憲派が戦前と戦後でダブルスタンダードを使い、あくまでも「正義の戦争と悪の戦争の区別はない」のは戦後だけのことに限り、「戦前は悪の日本と正義の連合国の戦い」だったと主張しているのが理解できず、「戦前も戦後も正義の戦争と悪の戦争の区別はなかった」というのが護憲派の主張であると解釈してしまっているようです。

だから、「どっちもどっち」論を持ち出しすのは「戦前、戦中の日本の侵略行為を相対化させるための言い訳」に見え、9条に固執するのは「日本人が戦争責任から逃げるため」であり、その思想を世界に広めようとするのは「日本の戦争責任を旧連合国側の国に追求させないためのレトリック」と映るのです。この善良なるオランダ人は、護憲派が意図することと正反対に理解してしまったようです。

護憲派がこのような誤解を受けずに、日本の自衛力を抑制したいのなら、「侵略戦争は不当だが、自衛戦争は正当である」という見解に立ってはどうでしょうか。そして正当な武力行使でさえも妨げる憲法9条を改正する必要性を認め、改憲派へ転向すべきではないでしょうか。

憲法改正!

日本の平和と安全の確保のため、国民が自尊心を持てる為、日本が真の民主主義国家となるために日本国憲法を改正しよう。

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