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憲法改正!

日本の平和と安全の確保のため、国民が自尊心を持てる為、日本が真の民主主義国家となるために日本国憲法を改正しよう。

平沢勝栄、小林節/対談『憲法、危篤』

憲法を論じるならザインではなくゾルレンから。国のため憲法がある。憲法のために国があるのではない。平沢勝栄自民党衆議院議員小林節教授の対談本『憲法、危篤』(KKベストセラーズ2002年発行)より引用紹介します。

日本という国のために憲法がある。憲法があってその国があるわけではない。

(p.63)平沢勝栄

なぜこんなことになってしまったのか。それは私たちが、戦後しっかりした国家意識を持たなかったからである。その意味では、憲法の問題が大きかった。憲法ができてから五十数年、一度も改正しないで今日まで来てしまった。

はっきり言うが、憲法改正に反対している人たちも、今の憲法に全部賛成しているわけではない。全部賛成しているわけではないが、憲法を改正してはダメだと主張している。あの人たちは、憲法が国に優先しているのだ。

一番大事なことは、本来は、”ザイン”ではなくて”ゾルレン”だということだ。ザインというのは「今存在する」という意味でゾルレンは「今後こうあるべきだ」ということである。だからザインではなくてゾルレンから話をしなければならない

ところが、憲法を改正してはいけないという人たちはザインなのだ。いま日本には憲法がある。これがすべてだ。これを改正するという意見は反動で右翼でけしからんという議論で今日まで来た。

考えてみればこんなおかしな話はない。日本という国のために憲法がある。まずは、どういう国をつくるのか。その国をつくるためには憲法はどうあるべきか。そう考えるのが筋である。憲法があってその国があるわけではない。

ところが、「護憲、護憲」と言っている人は、憲法がすべてであり、「憲法栄えて国が滅んでもよい」という考えで今日まで来ている。これがまかり通っていたのだから、ほんとうにおかしな話である。

井筒監督、「みんな死んじゃえばいいじゃないですか」

映画の井筒監督は憲法9条の改正に反対し、非暴力主義を主張して次のように語りました。

井筒監督:高校生相手に

「みんな死んじゃえばいいじゃないですか」って、これは武器も持たずに自衛力も持たずに、一生懸命ほかの国と対等に平和外交を進めていて、ある日突然裏切られて爆弾落とされた、「みんな死ねばいんですよ。」

井筒監督は「憲法9条を守れるなら国民は死ねばよい」と主張します。

再び『憲法、危篤』から

(p.71)平沢勝栄
私は東大の芦部信喜教授から憲法を学んだ。小林先生などは別だが、日本の多くの憲法学者の最大の問題は、今の憲法を不動の前提にしてその解釈に終始していることである。

私は、アメリカの大学でアメリカの憲法について学んだ。アメリカの憲法の授業は、憲法ではこうなっているが、本来社会はどうあるべきか、そのためには現行憲法のどこがおかしいか、おかしければどこをどう改正したらよいかを徹底的に論議する

日本の授業は、憲法は「不磨の大典」であり、絶対改正してはいけないという立場で、どう解釈するかだけの訓詁学、解釈学を続けてきた。こんなバカな学問を多くの学者はずっとやってきた。だから、私は憲法学者は世間知らずが多いと思っている。こんな憲法学者なら要らない。憲法があって国があるのではない。国があって憲法があるのだ。

要するにザインではなくてゾルレンなのである。どういう形の国を作るか、そのための望ましい憲法はどうなのか。そのためには現行憲法をどのように改正したらよいか。これを大学の授業でやるのが普通ではないだろうか。

ところが、今までの大学の授業は、九条はどういう解釈だ、十条はこう解釈するという議論ばかりやってきた。こんな授業だったらやめた方がいい。こんなバカな授業ばかりやっているから、日本が駄目になってしまうのだ。

しかもその解釈が人によって違う。A説だB説だといろんな説が乱立する。そうでなくて、「国はこうあるべきだ、それにはこういう憲法が望ましい、ならば現行憲法はこう改正すべきだ」という授業をやらなかったら、憲法学の意味はない。憲法を専攻しているみなさんはザインをとるのかゾルレンをとるのか。

国家はこうあるべきだから、そのための憲法はどうあるべきかということを、ぜひ考えていただきたいと思う。

憲法改正!

日本の平和と安全の確保のため、国民が自尊心を持てる為、日本が真の民主主義国家となるために日本国憲法を改正しよう。

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