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憲法改正!

日本の平和と安全の確保のため、国民が自尊心を持てる為、日本が真の民主主義国家となるために日本国憲法を改正しよう。

日本国自主憲法試案 憲法研究会編

日本国憲法が理想としている、その『平和主義』と『民主主義』とをまもるためにこそ、現行憲法の改正が必要なのです。神川彦松博士を中心として昭和28年秋に結成された「憲法研究会」。昭和29年11月には「自主憲法試案」を発表しました。神川博士による同著「はしがき」および序章「憲法の全面改正の必要性とその方向」を紹介します。

日本国憲法」の原案がGHQの手によるものであることは当時の国民も薄々は感じていました。しかし初めて一般人に公開されたGHQ作成の憲法原文を読んだ当時の国民は、あまりにも「日本国憲法」がGHQ原文に忠実であったことに愕然としました。「国民が作った憲法」などではなかったことがはっきりしたのです。

「はしがき」より引用

現行の「日本国憲法」は、誰も知るように、終戦の翌年の十一月三日に交付されて、その翌年五月三日から実施されたものである。この憲法は、絶対非戦の理念を高く掲げ、個人人権の尊厳を強調し、代議政治の機構を徹底せしめようとする点で、たしかに特色と長所とをもっているということができよう。

だが遺憾なことには、この憲法は、戦勝国軍が、わが国土を占領し、軍事独裁政を行っていた時に制定され、実施されたもので、世界史上全く前例のない”外国製憲法”であることは世界のひとびとの知るとおりである。

この憲法の原案、すなわちマッカーサー憲法原案は、昭和二十一年の二月四日から十日にいたる一週間の間に司令部の委員会で書き上げられ、ついで十三日に、これを日本政府に”新憲法の基礎”にするようにとさげ渡したものである。

しかもこの原案なるものは、今日までアメリカでも、また日本でも全く厳秘に附されていて法的には何人も知りえないのである。表面上”民主的憲法”であると声高く宣伝されているその憲法の原案をその当の国民が全く知らされていないなどということは世界史上の不思議という外はない。

ところが本年六月にいたって、その原案は、わが国で渡辺銕蔵博士の手で始めて発表されたのだ。そこでわれわれは、その原案と、この現行憲法とは比較対照して見て、そのあまりにも同一であるのに驚嘆したのだ。

現行憲法は、ただ原案そのままの単なる日本語訳にすぎないといって過言ではない。

当時、いわゆる「憲法改正案」なるものは日本政府によって公表され、議会に附託されて数箇月間の討議を経たのであるが、これらは実際には殆ど全く、司令部の命令によって演ぜられた”猿芝居”であったということが、動かぬ証拠によって実証されたのである。

このような経緯でできた憲法は、よしその内容が、いかほど”民主的”であったとしても、実質上は、最も非民主的な独裁憲法であることは、いかなる憲法学者も否定しえないところである。

なぜなら、一憲法が自由な民主的憲法であるがためには、主権的人民が、自らの発意により、自らの手で、自分の利益のために作ったものでなければならないからだ。

ところが当時、日本国民は、外国軍の軍政下にあって「主権的国民」ではなかった。この憲法は、司令部の発意で、司令部の手で、連合国の利益のために作られたものであった。これがほんとうに、日本国民の自由な民主的憲法でありえないことは明白であるからだ。

占領軍の指図でできた独裁的憲法を自らの憲法とするかぎり、日本国はほんとうの自由民主国とはいえない。またこんな憲法で満足しているかぎり、日本国民は、ほんとうの自主独立の国民とはいえない。

日本国が、ほんとうの自由民主国でなく、日本国民が、本当の自主独立国民でないかぎり、われわれは永久に自由な民主的な人間になれないことは当然でなければならない。

「憲法研究会」同人諸氏は以下のとおり(肩書きは当時)

藤田嗣雄博士
矢部貞治博士
大西邦敏早大教授
田神穣治一橋大教授
黒田覚都立大教授
村瀬直養元法制局長官
田畑巌穂日大講師

憲法の全面改正の必要性とその方向

現行憲法の再検討とその全面的改正は、なぜ必要であるのか。その設問に対して簡単明瞭な解答を与えようとするならば、「日本国憲法が理想としている、その『平和主義』と『民主主義』とをまもるため」という表現をもって答えるにしくはないであろう。

およそ、憲法が民主的であるといわれるためには、その制定の主体が主権的人民であり、その制定の手続きが民主的であり、且つ制定された憲法の内容が民主的であることを必要とする。

日本国憲法が、「平和主義」と「民主主義」を、その基本原理として制定され、施行されたことは、我々が夙に教え込まれてきたところである。

が、しかし日本国憲法制定の事情が漸く明らかになるにつれて、日本国憲法は、その制定に当たって既にこの基本原理に反していることがますます明瞭になった。

当時の日本国民は外国軍軍政下の国民であって、もとより、主権的人民であるはずがない。また、その制定の手続きが民主的であったとはどうしてもいえない。

そればかりか、その後の日本国憲法の運用において、その理想とする「平和主義」と「民主主義」は、単なる理想たるにとどまり、日一日とその現実化が困難になってきている。理想は、ただその高きが故に意味があるのではなく、その実現が保障されるときに意味を持つのである。

実現の保障されていない、従って現実の方法に対する考慮の払われていない、単なる理想は、所詮、空想・夢想であって、理想とはいえず、それは、個人の楽しみとはなり得ても、国家社会の目的とはなり得ないのである。

日本国憲法が、マッカーサーの指示によりGHQがわずか一週間の時日を費やしただけで作製した「原案」を基礎にして作られたものであり、しかも日本政府の最初の「草案」とマッカーサーの提示したオリヂナル・テキストとを比較すると、その内容においても、その文句においても、殆んど全く同一であったということは、今日ではすでに周知のとことである。

また、その後の帝国議会での審議過程において、この最初の「草案」に若干の修正が加えられたとはいえ、その多くが占領軍の指示によるものであって、日本側の自由意志による修正などは、ただほんの僅かの枝葉末節の点にすぎなかったことに思いを致せば、この憲法の制定に、日本人が表面的にはタッチさせられたとはいえても、日本人がこの憲法制定の主体となって、この憲法を自ら制定したということのできないことは明らかであろう。

しかし、この憲法が、戦勝連合国の対日占領政策の主たる目的の一手段として制定されたということを考えれば、この憲法が、日本国民のために作られたものではなく、占領国のために作られたものであることを理解することも容易であろう。

日本国憲法が、その制定手続きの点で、すでにその標榜する民主主義に矛盾しており、自由な、民主的な憲法といい得ないことは明白であろう。

この故に、われわれ日本人が、自らが主体となって、自らの手で、しかも自らのために日本国憲法の改正を意図することが必要なのであり、これはまた、民主主義の当然の要請である。

この憲法は、平和主義を理想とし、日本を平和国家たらしめんがために、日本の防衛力を奪った。このため日本が外国を侵略するという道を絶つことはできたであろうが、それと同時に、外国が日本を侵略した場合これに対処する道をも断ってしまったのだ。

一国家の防衛力を放棄することによって平和が達成されるためには、世界万国が同時にかつ平等に軍備を放棄し、彼我ともに侵略のない状態が前提されなければならないのである。このような前提のない国家防衛力の放棄は、絶対的な無抵抗主義を意味し、自国の独立と生存の放棄以外の何ものでもないのだ。

憲法改正!

日本の平和と安全の確保のため、国民が自尊心を持てる為、日本が真の民主主義国家となるために日本国憲法を改正しよう。

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